【88】 京都の秋 2005 その1                2005.11.30−12.01


    嵯峨野竹林〜野宮神社〜常寂光寺〜落柿舎〜ニ尊院〜祇王寺〜化野念仏寺


  〜嵐峡館〜大悲閣〜亀山公園〜大河内山荘〜清滝〜水尾〜先斗町、泊は  その2
  2日目 … 金福寺 〜 詩仙堂 〜 圓光寺 〜 曼殊院  は    その3





 溜まっていた仕事が昨夜片づいたので、「今日しかない」と思い立ち、京都の秋を訪ねてみようと、急遽出発することにした。今回の目的は「化野念仏寺」。8000余体の無縁仏が眠るという、洛西の霊地である。


 午前5時05分、出発。栗東ICから名神に乗ったころに東の空が白み始め、京都東ICで降りるころには夜が明けた。京都の秋 2005 早朝の嵐山
 五条通を西へ走って京都市内を突き切り、西大路で右折し、四条大宮を左へ折れてさらに西進、桂川堤防へ出た。早朝なので渋滞などは全くなし。春の桜のときには、まだここから1時間かかったなと思いながら、7時15分に、嵐山渡月橋へ着いた。


         朝もやにかすむ 嵐山 愛宕山 →
京都の秋 2005 朝日の渡月橋  



 ← 朝日に照り映える渡月橋



 駐車場も店屋も、まだ開いていない。各地から来ている車が、市営駐車場の入り口近くに列を作って、会場を待っている。僕の前の車は京都の秋 2005 モーター・ハングライダー、沼津ナンバーだ。


 駐車場が開く8時までの時間を潰そうと、川原へ降りたり、渡月橋を渡ったりして、辺りをブラブラしていると、バリバリという爆音を立てて、モーターハングライダーが、桂川の川面を川下から飛んできた。橋の上から眺めていると、橋では急上昇してうまく飛び越え、上流へと飛び去っていった。
京都の秋 2005 渡月橋から小倉山を望む




 7時30分、駐車場のおじさんがやって来た。入り口の鎖は閉めたままにして、出口を開けて入っていった。
 待っている車列の10台目ぐらいにいた僕は、開け放たれた出口の真ん前…、おじさんに付いて、駐車場へ入っていった。
「あれ、まだ…」というおじさんに、「前の道へ車を止めていると危ないから」とかいって奥の区画へ車を止めると、そこには既に1台のワゴン車が…。中で70歳ほどのご夫婦が、おにぎりをほおばっている。どこから入ったのだろう。
 7時40分、おじさん、少し早くに入り口の鎖を開けて、道に並んでいた車を誘導…。待ちかねていたみんなは、「おじさん、やさしいね」とか言って、次々に入ってきた。京都の秋 2005 嵯峨野の竹林


 渡月橋のたもとの茶店で、自転車を貸りた。免許証を出して800円を払うと、1日貸してくれる。10年ぶりに乗る自転車は、前のバスケットに荷物を入れているからか、ちょっと不安定だ。
 「人の少ないこの早朝に、ぜひ竹林を訪ねてみてください」という自転車屋のおじさんの勧めに従って、天竜寺の横を左へ入って、竹林の中の道を走る。
 

 風に鳴る竹笹の道を抜けると、錦の衣を纏ったかわいい小社に出た。伊勢神宮の斉宮の皇女が伊勢に行く前に潔斎をしたという「野宮(ののみや)神社」、もちろん祭神は天照大京都の秋 2005 野宮神社神におわしはべる。黒木鳥居と小柴垣に囲まれた宮のいでたちは、源氏物語「賢木の巻」に美しく描写されている。


 ← 竹林の中にひっそりとたたずむ野宮神社
      嵯峨野めぐりは ここから始まる





 
京都の秋 2005 常寂光寺 山門横の参道
常寂光寺山門横の参道

 山陰本線の踏切を越えてダラダラとした登り道の両側には、赤や黄色の彩り多い木々を植え込んだ邸宅が続く。
 その突き当たりの一角に、秀吉建立の方広寺大仏殿供養に宗門が違うことを理由に出仕せず、この地に隠棲した、本圀寺(ほんこくじ)住職の日禎(にっしん)上人が開いた「常寂光寺」がある。
 常寂光とは、仏教上の天台四土の一つ、生滅変化を超えた永遠の浄土を言い、日禎はこの小倉山の山すその地にその浄土を見たのである。            
京都の秋 2005 常寂光寺仁王門
 
 茅葺きの山門をくぐると、そこは色鮮やかな錦繍の世界だ。僕たちは、開門を山門前で待っていた朝一の訪問客だから、まだ喧騒前にこの庭を歩くことができたが、もう1時間もしたら、「常寂」ではなく、ただただ「光寺」となることだろう。


← 常寂光寺仁王門


 歌聖、藤原定家が百人一首を選定したのは、この小倉山。定家の山荘「時雨亭」は、この寺の境内に位置していると伝えられる。
京都の秋 2005 常寂光寺の庭1 京都の秋 2005 常寂光寺の庭2 京都の秋 2005 常寂光寺の庭3
  常寂光寺の庭園

 パンフレットには、「開山日禎上人は、本圀寺にて修行、十八才で同寺の法灯を継ぐ。宗学と歌道への造詣深く、三好吉房(秀吉の姉婿)、瑞竜院日秀(秀吉の実姉)、小早川秀秋、加藤清正や、京都町衆の帰依者が多かった。
 当時、歌人としても著名であった上人に、歌枕の名勝小倉山に隠栖処を提供したのは、角倉栄可(了以の従兄にして舅)と了以(りょうい)であった。
 その後、慶長11年(1606)、了以が大堰川(おおいが京都の秋 2005 常寂光寺から京都盆地を望むわ)改修工事を行ったとき、上人は備前の本圀寺末檀家であった瀬戸内水軍の旗頭、来住(きす)一族に書状を送り、熟達した舟夫の一団を招き、了以の事業を支援した。云々」とある。
 上人は元和3年(1617)この地に遷化、時に57才であった。


 本堂の奥に建つ、多宝塔(重文)に登ると、紅葉の波の重なりの向こうに、京都盆地が見晴らせた。


    遠くに、ポコンと高く比叡山が見える→

 
京都の秋 2005 落柿舎
落柿舎
 郊外らしい畑が広がる中を自転車を漕いでいくと、すぐに江戸時代の俳人向井去来の草庵「落柿舎」がある。侘び寂びの世界に遊ぶ洒脱な俳諧人の住処らしく、門口を入るとすぐに裏に抜けるような、藁葺きの閑居であったが、いかにも住み心地の良さそうな幽棲である。
 去来は蕉門十哲のうちでも、芭蕉が最も信頼した弟子であった。元禄4年(1691)には芭蕉がこの草庵に滞在し、『嵯峨日記』を記しているが、一時(いっとき)朽ち廃れ、今の庵は京都の俳人井上重厚が再建したものだとある。
 落柿舎の名は、庭にある40本の柿の木の実が、一夜のうちにほとんど落ちたことがあり、以来、去来は自ら「落柿舎の去来」と書くようになったということだ。
 家舎の前にしつらえられた木製の長椅子に掛けて、僕は20分ほど居心地のよい時間を過ごした。見上げると、すでに葉を落とした柿の木に、7〜8個の熟した実がぶら下がっている。一句ひねろうと思案したが句才に乏しく、この素晴らしい秋景色を愛でる五七五が出てこない。

京都の秋 2005 ニ尊院 紅葉の馬場
『モミジの馬場』と異名をとる参道

 小さな可愛いお土産物屋さんが並ぶ道を走って5分ほど行くと、「ニ尊院」に出る。本尊に釈迦如来と阿弥陀如来のニ尊を祀っているためにこう呼ばれている。角倉了以が伏見城の「薬医門」を移築した総門をくぐると、唐門までの間の参道は『モミジの馬場』と異名をとる紅葉の見所だ。
 本堂に上がり、ニ尊に参拝。左手の茶席「御園亭」前の庭の色づきに、目を見張った。赤、朱、ももいろ、オレンジ、黄色…、さまざまな色合いの紅葉が生垣の緑と見事なコントラストをなして、縁側に座って眺めていて、いつまでたっても見飽きることがない。



 ← ニ尊院 奥 茶亭前の庭

 

 この寺にも、藤原定家の山荘「時雨亭」があると記されている。再度、常寂光寺のパンフレットを広げて読んでみると、『嵯峨に時雨亭三ヶ所あり。常寂光寺、ニ尊院、厭離庵これなり。いずれも定家山荘跡とうたい、後世の好事家になって造営されしもの、乃至その跡なり』とある。さらに『昭和十年代に国文学者の考証ほぼ出揃い、常寂光寺仁王門北、即ちニ尊院南にして…、穏当なる推測…』とある。

京都の秋 2005 祇王寺の庵








 「祇王寺」のしおりに『嵯峨野の史跡を探るのは、晩秋初冬のころ、また晩春のころがよいとされる』と記されていた。ならば、今こそは絶好のシーズンではないか。
 壇林皇后と呼ばれた橘嘉智子(嵯峨天皇后)ゆかり    陽光に映える祇王寺の中庭↑
の大寺「壇林寺」の奥に、ひっそりとたたずむ祇王
寺は、『平家物語』に名高い白拍子「祇王」ゆかりの寺である。
 平清盛の寵愛を受けていた祇王は、仏御前の出現によって捨てられ、母と妹とともに嵯峨野に庵を結んで、尼となる。後には、清盛の寵を失った仏御前も祇王を追ってこの寺に入り、4人の女性はここで念仏三昧の余生を過ごしたという。時に、祇王18歳、仏御前20歳であった

 京都の秋 2005 祇王寺2世の中の栄枯盛衰に身を任せ、運命を恨みもせずに、その赴くままに生きた祇王のこころを思い遣るほどに憐れである。しかし、その時代に生きた女性として祇王は、自分を通り過ぎていった清盛や、自分の身を木の葉のように浮きつ沈みつもてあそんだ時代の波を、懐かしみこそすれ、恨みに思う気持ちはなかったのかもしれない。


← 祇王寺の庵




 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり … 奢れるものは久しからず ただ春の京都の秋 2005 祇王寺の庭3夜の夢の如し」。
 平家一門が滅び、鎌倉の世となっても、祇王はこの小倉山の庵で、一代の夢に心を残して死んだ清盛の供養を仏に祈った。
 「沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」…、清盛の心変わりや自分を捨てた冷たい仕打ちを恨むのは詮無いことを、彼女は知っていたのであろうか。
 この寺の庵の左手の小高い一角に、小さな4つの墓がある。春は花、夏は緑、秋は錦、冬は白雪に包まれて、彼女たちは静かな眠りについている。


 先ほどから曇っていた空が晴れて、太陽が顔を出した。光に照り映えるモミジ葉が、一段と鮮やかである。


 京都の秋 2005 竹林の奥の紅葉が鮮やかコントラストを描く


 途中の竹やぶを覗いたりしながら、北への道を走った。京都は、北へ向かうことを上るという。必ずしも坂道になっていて登りが続くという意味ではないが、総じて北へ行くほど土地が高いのも事実である。
 自転車を漕ぐ足に、疲れが溜まってきた。うしろから来た70歳ぐらいのおばさんに、スイッと抜かれてしまった。「あれっ、抜かれたぁ」と叫んだら、振り返り「私らは、毎日乗ってますンよ」と笑って行ってしまった。僕も、毎日、足腰の鍛錬をしないといけないなぁ。


 喘ぎつつ漕ぐこと5分、左手に石段が見えてきた。これを登れば、今日の目的地「化野(あだしの)念仏寺」だ。

京都の秋 2005  化野念仏寺1 なぜ、今回この寺を訪ねてみようと思ったのかというと、まず化野(あだしの)という土地の名前が妖しげで魅力的であった。そして、ここ化野の一帯は、昔、死者の遺骸を棄てる、風葬の場所だったとか。遺棄された死者の遺骸は野ざらしにされ、その霊魂がさまよう荒野だったのである。


← 山門を入ると、塀の横に並ぶ石仏たちが
  出迎えてくれる。


京都の秋2005  念仏寺の鐘楼
 石仏で知られる念仏寺は、弘法大師が、弘仁2年(811)、化野の風葬の惨めさめを知って五智山如来寺を開創し、野にさらされていた遺骸を埋葬して、里人に土葬という埋葬を教えたことに始まる。その後、法然上人がこの地に念仏道場を開いたことから、化野念仏寺と呼ばれることになった。
 徒然草第七段の書き出しは、『あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそ、いみじけれ(化野の露が消える時がないように、この世にいつまでも住み通すことが出来るなら、趣などない。人の寿命は定まっていないからこそ、妙味があるのだ)』とある。
 この世は無常であるからこそ素晴らしいという、兼好法師の無常観の現れであるが、寄る辺なき世の遺骸をさらすあだし野の露…、やはりこの地は密教の妖しさを秘めて魅力的だ。

京都の秋 2005  化野念仏寺 西院の河原 石塔のまわりに多くの石仏が並ぶ

← 石塔の周りに多くの石仏が並べられている。
 たくさんの石が敷き詰められていることから、
 賽の河原になぞらえて「西院の河原」と呼ばれ
 ている。

京都の秋2005









 燃えるような紅葉の境内に並ぶ、8000体を越える石仏は、往古あだし野の山野に葬られた人々の墓である。何百年という歳月をの流れの中で無縁仏となり、一帯に散乱埋没していた石仏を、明治中期から地元の人々の協力によりこの寺に集め、十三重の石塔の周りに並べて安置した。ひときわ高い石塔の周りに、無数の石仏が並ぶ様は、釈迦の説法に集う人々の姿を思わせる。
 毎年、8月23・24日の地蔵盆には、無数の石仏石塔にろうそくを灯す千灯供養が行われる。無明の闇の中に、寄る辺なき石仏たちが幾万の炎に揺れる光景は、この世を離れて幻想的である。


 本堂横の水子地蔵に手を合わせて、その奥の竹林の小径を歩く。「竹の秋」とは、俳句の春の季語だというが、ならば京都の秋2005  念仏寺本堂奥の竹林今は竹の春か…。
 それにしても、この化野を歩いていたときも、そして、この旅行記を書いている今も、背筋がゾクッとするのは、霊魂といったものに対する怖れであろうか。目に見えないものへの恐れが人間を謙虚にするのだろうが、現代人は、夜が明るくなったせいか、無明の闇に潜むものに対する畏怖の念を忘れてしまって傲慢である。
 静かな竹林の中の凛とした気配が、深い秋の冷気と溶け合って、あだし野の山里に不思議な荘厳さを漂わせていた。



京都の秋 2005  化野念仏寺5

 しおりに、化野の「あだし」は、はかない…むなしい…という意味…。そして「化」の字は、「生」が化して「死」となり,さらにこの世に再び生まれ化わることや,極楽浄土に往生する願いなどを意図している…とある。
 古来、京都には、大文字の送り火や鞍馬の火祭りなど、亡き人の霊を慰めるさまざまな行事があったが、ここ化野をさまよった霊は人々の厚いとむらいに静かに鎮まり、辺りは晩秋の涼気に清々しい。
京都の秋 2005  化野念仏寺 巫女猫

 石段を降りてきたら、生垣の山茶花の下に大きな猫がいた。僕に向かって、大きな声で「ニャーニャー」と呼びかけてくる。まるで「私は化野の巫女…。そなたの肩に水子の霊が見える」と呼んでいるみたい。近づいて頭を撫でようとし京都の秋 2005  化野念仏寺から清滝へたら、「フー(無礼者)!」と叱られてしまった。


 念仏寺下の道を更に北へ上れば、愛宕山一の鳥居から試峠を越えて清滝に至るのだが、この先は山道で、ここまでの倍ぐらいの距離を走らなくてはならない。
 ちょっとお腹も空いてきた僕は、渡月橋界隈に引き返すことにした。



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